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八重の桜 第50回「いつの日も花は咲く」

2013年12月 15日 By: rainbow Category: 2013年_八重の桜 No Comments →

物語は従軍篤志看護婦として広島陸軍予備病院で必死に看護する八重の姿から始まります。この辺りの姿は、戊辰戦争で多くの負傷兵を日新館で看護した姿に完全に重なります。時代は違ってもその人の根本的なところは変わらないのかもしれません。その当時からさらに進んでいるのが「敵も味方もなく看護する」という精神。相手が清国の兵士であっても、傷ついた者には平等に看護するという考え方は、この時を初めとして日本でも根付いていったのかもしれません。

その日清戦争を大陸で指揮するのが大山巌。坂の上の雲を見ていたので、その後の日露戦争での旅順攻略がとても厳しいものであったという印象を持ってみていたのですが、日清戦争では比較的たやすく攻略することができたようです。そういった軍事状況を鼓舞していたのが新聞社であり、その中心的な一人が徳富でした。新島襄の教え子でもある彼は、世論という目に見えないものを大きく動かす力を持っていて、八重はそれをどのように使うつもりなのか、厳しく問いだたします。この問は未だに答えが出ていない現代にも通じる宿題事項なのではないでしょうか。そんなことを考えさせられます。

気持ちが整理するために八重が向かったのがやはり、会津。そこには頼母がいました。いつの時代も必死に生きようと努力し、そして笑顔を保とうと努力する人々がいる。八重は、まるで桜であり散っても散っても、また次に咲き誇りなさいと諭します。西田敏行さんはさすがという演技で、物語を上手くしめてくれたような気がします。

ここで八重桜とは、この辺りから来ているのではないかと思って調べてみたのですが、実際にはそうではないようで、少し残念。それでもそう思わせるほどの素晴らしい人生を歩まれてきたんだと知ることが出来て、本当に良かったと思います。

さて、次回からは黒田官兵衛。戦国時代にまた戻ってきました。岡田准一さんの演技に期待したいと思います。

◆八重の桜紀行◆
京都府京都市
福島県会津若松市

八重の桜 第49回「再び戦を学ばず」

2013年12月 09日 By: rainbow Category: 2013年_八重の桜 No Comments →

残すところあと2回となった今回のお話は、再び会津の皆様の登場により盛り上がりを見せます。まず覚馬のもとにやって来たのは山川健次郎でした。浩が尚之助が記した会津戦記をなんとかして仕上げなくてはならないということで、京都での出来事を覚馬から色々と聞こうと思ってやって来たのですが、実際には覚馬が薩長の人々の肩を持つような発言をしたことによって、激しく罵ります。

この時の覚馬は本当に正論で、戦というものはどちらか一方だけが正しいのではなく、敵も味方もそれぞれ自分たちは正しいことをしているという思いがあり、幸せな未来を作るために頑張っている多面性があるということを示しています。しかし、後に覚馬はそれでも戦争が始まってしまいそうな状況に自分が学問を通して戦をなくすという思いが無駄になったのかと嘆くのでした。

この覚馬の思いは、本当に現代においても言えることで、人々が学び賢くなることによって戦争をなくすことができているかというと必ずしもそうではありません。エゴイズムやイデオロギーが渦巻く中で、人々の心の奥底には、戦への思いが眠っているのかもしれません。それを知によって自制する力が、今の時代にも求められているのではないでしょうか。そんなことを考えさせられる場面となりました。

覚馬の最期は、新島襄よりもあっさりしていたのがなんだか残念でなりません。最後の方はなんとなく早足になって物語が進んでいるように見えるのですが、この辺りこそ八重が生き抜いた時代の結末なのですから、もう少し時間を割いても良かったのではないかと思います。

さて、次回は最終回。日清戦争に赤十字のメンバーとして看護に当たることになる八重。そして、今回容保が出した会津が逆賊ではないことを示す孝明天皇の書の行方、など最後の最後でどのように結末を迎えるのか、楽しみにしたいと思います。

◆八重の桜紀行◆
京都府京都市
 - 山本覚馬之墓

八重の桜 第48回「グッバイ、また会わん」

2013年12月 01日 By: rainbow Category: 2013年_八重の桜 No Comments →

前回にフラグが立ったように、今回は最愛の伴侶である新島襄の最期となりました。静養先の大磯で病床にある襄の元にいたのは、教え子である徳富猪一郎と小崎弘道でした。教え子からここまでも慕われている様子を見ると、いかに新島襄が偉大な人物であったかを改めて感じさせます。

ちなみに、この小崎弘道ですが、2代目の同志社総長になるという人物。新島襄の思いをかたちに変えつつ、より大きくしていった人物がこのように近くで先生の最期に立ち会うことができたは、幸運だったのかもしれません。

そして、最期の時がやってきます。襄の枕元にいるのは八重。聖書の一節を小崎弘道に読んでもらい、最期の言葉は「グッバイ、また、会いましょう」でした。こうやって最愛の伴侶に言葉を残す事ができるのもまた、幸せなことなんでしょう。残されたひとにとっては、とても辛く悲しいのですが、本人は満足であったに違いありません。

襄の死後、何もする気になれなかった八重ですが、覚馬の叱咤激励で立ち直り、日本赤十字社の篤志看護婦の仕事をするために、捨松のところへ向かいます。この辺り、八重という人物は、尚之助、襄、覚馬という偉大なる人物に助けられながら、その時代に求められる道を切り開いてきたのだと感じます。

残りもあと2回となりました。次回はその支えとなった最後の人物である覚馬もこの世を去ることになりそうです。そのとき、八重はどのように残りの人生を生き抜いていくのか楽しみです。

◆八重の桜紀行◆
神奈川県大磯町
 - 新島襄先生終焉之地碑
 
京都府京都市
 - 新島襄之墓